鞭と髑髏
Peitsche und Totenkopf /隷姫姦禁指令

Female Trouble

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1・残酷な天使 Der Grausame Engel
 初夏の遠雷が、遥遠から響いている。視界いっぱい晴天が広がる草原にも山麓にも、嵐
の予感など微塵もない。だが、この彼方の雷鳴の如く、欧州全体に軍靴の響きが蔓延する
のは間もなくのことだった。
 すでに、この国の国境以北を支配する帝国は、その狂気じみたカリスマを振りまく総統
(フューラー)の意志のもと、際限ない拡張政策を東方に向かって推し進めていた。増強
された軍備を楯に、露骨な侵略と併合を繰り返す帝国を、列国は眉をひそめつつ、しかし
そのさらに東方に陣取る赤色大国への敵視と牽制を期待し、見て見ぬふりをしている。

 遠雷に混じって、北の空からエンジンの爆音がかすかに聞こえてきた。
 「ハチドリ」と称されるそのオートジャイロは、近年強勢めざましい帝国空軍(ルフト
バッフェ)の最新兵器である。ほとんどの国で研究の端緒にもついていない垂直離着陸可
能な回転翼式航空機を、すでに帝国は実用化し、いつでも戦線に投入できる状態だったの
だ。

 ここは、その帝国国境の南端に接する小国である。欧州中央を縦断する大河の源流であ
る山岳地帯のはざまの盆地に、古代において堰湖を作り、そこに小さな町が広がっている
のだ。
 猫の額のような国土面積は世界最小の独立国家の座を争い、四桁をやっと越える程度の
人口しかない国。だが、中世には大公が封ぜられ、この近代まで脈々と受け継がれてきた、
赫々たる大公国でもある。かつて大山脈越えの交易の要衝として重要な時代もあったが、
今はこの手の国ではお決まりの観光・カジノ、そして切手発行が歳入の全てを占めている。
 
 現大公は従前より帝国とは穏当な友好関係を結んでおり、今も公妃ともども総統への表
敬訪問の旅に赴いていた。帝国が南方に食指を伸ばすことは情勢から言って有り得ないこ
とであったため、この訪問も何と言うこともない善隣外交としか思われなかった。

 山々の稜線の向こうから、豆粒のような、しかしはっきりと大きな回転翼のシルエット
がわかる機影が見えた瞬間、エンジン音が急に明瞭になって青空に谺し始めた。後世のヘ
リコプターとは違い、オートジャイロは巡航飛行中、回転翼のローターの動力を切断して
気流だけで回し、揚力を発生させている。だが機首に備え付けられた大出力のエンジンは、
通常のレシプロ機にも勝るほどの爆音を轟かせていた。

 そのコクピットの風防の内側に座っているパイロットは、まっすぐに公国の中心であり
全てでもある大公の城に機体を向けた。
 上空からは、深い緑に覆われた山々の間を流れる河の向こうに、渓流を堰き止めて作ら
れた古代の人造湖が見えた。その湖の中央には島があり、大公の居城がそこに建っている。
だが、遠方の機上から見る城は、まさに「聳える」と言った方がふさわしい威容を見せて
いた。
 中世の無骨な城壁の上に、さらに近世の増築に次ぐ増築が繰り返され、何層にも上に向
かって折り重なったような城からは、何本もの尖塔がそそり立ち、青と白の漆喰が塗られ
た城壁は眩いばかりに陽光を反射している。
 無骨にして華麗、混沌にして精緻、素朴にして洗練、穏和にして冷徹…。
 そして、優美にして酷薄な歴史の堆積を雄弁に語っていた。

 湖のほとりに広がる市街が、続いて視野に捉えられた。いつもならば観光客で賑わい、
活気のある町が、今はなぜか森閑と静まりかえり、市民は息を殺すように生活していた。
その理由は、町の上空に近づいていくに従って明らかになった。市街の要所要所に、異様
に厳めしい黒ずくめの軍人が銃器を構えて立っている。数は少ないが装甲車も散見される。
あたかも戒厳令下さながらの様相を呈していた。

 数日前、大公夫妻不在のこの国に、山脈を越えて帝国の武装親衛隊の部隊が進駐してき
たのである。一発の銃声すらも発せられることはなかったが、無言の軍隊は速やかに、ま
さに風のようにこの小国を占領した。外国人はことごとく国境外に強制退去させられたた
め、閑散とした市街には通行人の影も無くなっている。わずかにパトロールであろうか、
自動二輪が街路を走っている程度だった。

 帝国の占領部隊は、たった一台の中戦車に数輌の装甲車と、数十人の隊員のみにすぎな
い。だが、軍事力など有名無実のこの小国を占領するには十二分な戦力だった。
 市街から伸びるメインストリートは、すぐに湖のほとりに突き当たり、そこには唯一城
に通じる橋がかかっていて、古風な石造りの門と橋番の詰め所が立ちはだかっている。だ
が今は、進駐軍唯一の戦車がどんと腰をすえ、周囲に睨みを利かせていた。

 涼風爽やかなこの山国では、初夏と言えどもまだ肌寒い。まして屋外から雑踏の消えた
街は凍てつくほどに寒々しく思われた。武装親衛隊員たちもことごとく丈長のコートに身
を固め、襟を立てて歩哨に立っていた。
 激戦を繰り広げつつある東部戦線の兵士に比べ、本来戦闘のプロとして選抜の栄を受け
て鍛えられた武装親衛隊員にとって、こんな小国の警備などは、実際、気楽で暇で退屈な
任務のはずである。
 だが、銃を構えたまま身じろぎもせずに各々の持ち場に立つ兵士にはだらけた雰囲気な
ど微塵もなく、油断なく張りつめた鋭さを漂わせている。それだけで、この部隊がいかに
統率され、優秀なリーダーを戴いているかがわかるというものだった。

 そのリーダーに相当する人物こそが、このオートジャイロを操るパイロットだった。
 オートジャイロはさらに高度を下げ、遊覧するかのように細波立つ湖面すれすれに滑空
した。車輪が水面をかすめ、うっすらと白い線を引いたタッチアンドゴーは、見事な飛行
技術を誇っている。そして再度高度を上げたジャイロは、再びコクピット上の大型回転翼
に動力を伝え始めた。
 機首プロペラの速度が落ちると共に、オートジャイロは垂直着陸の態勢をとりだした。
あたかも黒い堕天使が降臨するかのように、ジャイロは城の中央にある中庭にゆっくりと
降り立っていった。

 すでに待機していた親衛隊隊員が、機械の正確さできびきびと誘導するその正確に真ん
中に、ジャイロは寸分違わず着地した。
 機を移動させ、まだプロペラが回転する中、隊員が車輪をロックした。そして、安全確
認と同時に、コクピットのキャノピーが開いた。
 頭からつま先まで黒一色のレザーの飛行服が陽光にきらめいた。かなりの高さがあるコ
クピットから、パイロットはひらりと身を翻し、降機の補助をしようとしていた隊員を肩
越しに飛び越えて、すたっと飛び降りた。

 飛行グラスとマスクを外し、ヘルメットを脱いだその下から、金色の奔流が滝のように
滑り落ち、陽光に照らされて揺れた。透けるように白い頬に真っ赤な唇が対比するように
映えている、理知的で端正な美貌を露わにした若き高級将校は、おもむろに飛行服の胸ポ
ケットから眼鏡をとりだして掛けた。
 そして、あたかもマントを翻すように飛行服を剥ぎ取ったその下からは、りゅうと着こ
なした漆黒の軍服姿が現れたのである。

 大きな襟には右に雷を象るジークルーン、左には不気味な髑髏が金糸で刺繍された襟章
が縫われている。右肩には佐官を示すパイピングの肩章、さらにその下には銀色のライン
で栄誉山型袖章までもがつけられていた。古参の隊員にしか授与されないはずの栄誉シェ
ブロンを、まだ20代前半の若さで得ている事実は、彼女が女子青年団(ブント・メーデ
ル)出身の、筋金入りの将校であることを物語っていた。
 左胸の略綬の下、胸ポケットには片手の指に余る数の勲章が鈍く光っており、とりわけ
首と胸の両方に飾られた鉄十字の勲章は実戦の証しであり、彼女が決して後方で幹部に媚
を売って地位を得たのではないことがわかる。

 肩章の下を通るショルダーストラップが繋がる腰のベルトは、総統の聖詞「Meine Ehne
 heisst Trene(忠誠こそ名誉なり)」が刻まれた円形の大型バックルで締められ、そし
て左腰には鎖吊り付きの短剣を下げている。普通の親衛隊員ならば自費購入せねばならな
いこの短剣は、しかし彼女の場合はその勲功により親衛隊長手ずから下賜された栄誉ある
ものであった。
 その短剣と並ぶのは、無論、拳銃のホルダーである。一般にはまだ出回っていない、軍
用としては初のダブルアクション機構の新式試作銃を与えられている特別待遇だ。
 太股の部分がたっぷりと余裕を持たせてあるズボンと、無骨なブーツは男性用と変わら
ないが、いっぽう上着といえば大きく胸の湾曲に合わせて仕立てられており、その下に隠
されたプロポーションの豊かさは想像しようとしなくても自ずから明らかであろう。

 そして、左の二の腕には鮮やかな朱に鉤十字を描いた腕章と、袖口のカフには部隊袖章
が巻かれている。そのカフタイトルには襟章と同じ髑髏のマークとジークルーン、その間
には謹厳なラテン字体でこう書かれていた。

 …「Peitsche und Totenkopf(鞭と髑髏)」と。

 ヘルルーガ・イルムガルト・デア・フォーゲルヴェヒター親衛隊特務少佐、というのが、
この女性将校の名である。
 初夏の陽光のまぶしさに目を細めた上官に、そっと駆け寄った一人の部下がさりげなく
手渡した。鷲の徽章も輝かしい黒の軍帽と、そして…。

 愛用の乗馬鞭を。

 直立不動のまま、無言で敬礼をする部下たちに向かって、ヘルガ少佐は鷹揚に敬礼を返
すと、そのままスタスタと歩き出す。その背後を副官である部隊長が、きびきびと付き従
った。

「お久しゅうございます。総統府直属へのご栄転から半年、特別任務でお戻りになったと
伺い、隊員一同お待ち申し上げておりました」

「…ん」
 そっけない答え方は、しかし横柄なのではない。そういうスタイルこそがこの有能な美
女将校のものだということ、そしてそれが部下への信頼感や一体感とは別物であることを、
この副官は十分に承知していた。

「公女の身柄は?」
 左に一歩引いて並んで歩く副官を一瞥もせず、真っ直ぐ前を向いて歩き続けながら、ヘ
ルガが訊いた。

「ちょうど昨日、修道院に身を潜めているところを確保しました。今は城の地下にある
『個室』に、丁重にお留まりいただいております」

「それでいいわ」

「しかし、総統府よりお尋ねの品については、まだ城内からもそれらしきものは発見され
ておりません」

「もう公女を尋問したの?」
 少佐の眼鏡が角度が変わって光り、眉がぴくりと上がった。

「いえ、城内の捜索だけです」
 そう言った副官が、声を低くして付け加えた。
「…それは、少佐の職権に当たると思いましたので」

「…よろしい」
 右手に持った乗馬鞭の先を左手で押さえ、ヘルガの表情が再び眼鏡の陰に隠れる。

「尋問はいつでも行えるようにしてあります。すぐに赴かれますか?」
 上官の顔色を窺う副官。

「いえ、まずはシャワーを使わせて。2時間もジャイロに乗って、汗をかいてしまったも
の」
 ヘルガが言葉を切る。
「…高貴なお方に接するのに、失礼があっては、ね」
 ヘルガの言葉に、部下も苦笑せざるを得ない。
「それと『侍女』の選定もしておかないと」

 意味ありげに言ったヘルガだったが、副官は上官が自分用の世話係を選ぶのだと思いこ
んだだけだった。

 ヘルガ少佐は中庭から城内への門をくぐった。大公のゲストに供される城内で最も豪華
な部屋に向かって、先導する部下と共に向かった。

 


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