陵辱カタルシス─王国の行方─ 第2話

隠者


【2】
 エルトガ!っエルトガっ!─
ユガに向け出陣するアンブローズ王は、割れんばかりの民衆の叫びに手を振って応え
ていた。王、また王に続く諸将軍、参謀から楽隊に至るまで、その顔は勝利を確信す
る笑みが宿っていた。
 かたや─軍勢を見送る王宮のテラスには、対照的な顔をした二人と一人。心の奥底
から湧き上がってくる、情欲の高鳴りに、出陣する者とは違った意味で笑う王妃アプ
リクシャ、そして将軍ヌーグ。
その傍らには、優美な顔を物悲しく曇らせたユイリーン姫がいた。
「……お父さま…」
ユイリーンは不安だった。父が戦に出掛ける時はいつもそうだが、今回の侵攻戦には
いつもより一層強い不安がある。日蝕にも似た不吉な影が、彼女の心を占めていた。
「ユイリーン。戦を前に、そんな顔をするものではなくってよ」
継母アプリクシャは、戦場に夫を送り出す女の顔とは思えないほど肌を紅潮させてい
る。夫の不在をかえって喜んでいる─そう見えた。
「私は……貴女のような顔はできません…」
「ま……その言い様はなに?」
「失礼します……」
ユイリーンは睨むようなアプリクシャの視線をかわし、テラスを降りた。見送るべき
戦列はまだ続いていたが、既に王の姿はなく興奮気味の周囲には姫がいなくなったこ
となど分かる様子もない。
「……生意気な子ね」
アプリクシャはユイリーンの背に冷たい視線を放ちながら言う。その眼には、明らか
に若く、そして美しく成長していく姫に対する嫉妬が含まれていた。
「お気になさいますな。澄ました顔でいられるのも今のうち。手は打ったのですか
ら…」
王妃の後ろに直立するヌーグが口を開いた。
「そうね…。でも、ヌーグ。彼らは本当に来るの?」
「来ますとも。百匹の芋虫より、一匹の蝶。連中はその効果をよく知っています」
「ほほ、面白いたとえね…。でも、あの娘が蝶なら私は?」
場にたち込め始める妖しい空気。アプリクシャは半歩下がり、ヌーグは半歩前。二人
はお互いの身体を接近させた。
「そうですね……蜘蛛でしょうか」
「あら…随分な言われよう…」
「いやいや、蜘蛛の糸に捕らわれた蛾としては、これでも十分な誉め言葉…」
「ほほ、どんな蛾かしら」
「こんな蛾です…」
ヌーグは左手でアプリクシャの尻を撫で始めた。ごつごつとした軍人の指は、遠慮も
なく背後から王妃の股間を刺激していく。
「あっ…悪い蛾ね……ンっ」
アプリクシャの甘く切ない声。テラスの下はまだ戦列が続いている。下からはテラス
の様子が分からないとはいえ、王妃と将軍、見つかったらただ事では済まされないという背徳が、かえって二人を刺激していた。
「ほら王妃さま、きちんと手を振って…」
「…あン…」
冷静にみれば、明らかに異様に密着した二人の影。微かに揺れるヌーグの腰が何を意
味しているのか。テラスの下を行く戦列には分からないことだった。

 ★★★

 テラスを後にしたユイリーンの足は真っ直ぐに大聖堂へと向かっていた。父ととも
に戦場に向かうことができない身である以上、できるのは「祈る」ことだけだ。
「……これは姫さま」
聖キュリアトス大聖堂を預かる老司祭ウゾは姫を見つけると、満面に喜びをたたえた
慈愛の表情を浮かべた。彼は姫が実に優しく清らかな心の持ち主であることを知って
いるのである。
「あ、司祭さま! もうお体はよろしいのですか」
ユイリーンはドレスももどかしく、抱きつかんばかりに駆け寄る。ウゾはここ数日体
調を崩して寝込んでいた。その顔色が悪いのは年のせいだけではない。
「いやいや…。まだ本調子ではございませんがの。今日は出陣前の戦勝祈念典礼にか
り出されましたのですよ」
「そんな、ではすぐにお休みなられないと…」
姫の大きな瞳は、すぐに哀しみに彩られる。人の心や身体を慮る。この子ならいい女
王になれると、ウゾは確信していた。亡くなった前王妃から引き継いだのは何もその
美しさばかりではないようだ。
「お気遣い有難うございます。ですが明日死んでもおかしくないような歳になります
とな、一日中寝ているは勿体なくての」
死ぬ─その言葉にユイリーンはどきりとした。司祭が死ぬ。考えてもみなかったこと
だった。幼少いや生まれた時から司祭は姫のよき理解者であった。その司祭の人生が
もう終焉に向かっていることなど、信じられないし、信じたくもない。どこかで分か
っていたことだったが、はっきりと司祭の口から「死」を意識した言葉が出ると、そ
の迫力はいよいよ現実味を帯びていた。しかも今は肉親である父王が不在である。こ
のエルトガで、父王以外に彼女のことを理解しているのは司祭だけといってもよいだ
けに、その動揺は大きかった。
「おやおや、どうされました?」
ウゾはゆったりとした聖衣の袂で、ユイリーンの涙を拭ってやる。
「……だって…司祭さまが」
姫の小さな胸に、漠然としていた大きな不安が塊となって押し寄せていた。姫という
名に普段は隠れているが、本来は感受性の高い「少女」なのである。
「ははは、これはこれは…」
ウゾは孫のような姫の身体を聖衣で優しく包むと、大聖堂の中へと誘った。この可愛
らしい姫さまの行く末を見守ってやりたい。そう願う彼であったが、それが空しい願いであることも知っている。ちくちくと痛む胸。それは何も病のせいだけではなかった。

【2】(了)

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