黄金の日輪*白銀の月2〜陰陽の寵賜〜
 第5話/回心

Female Trouble


 おそらくは人が一生歩み続けてもなお三代は重ねないと着かないであろうという、遙か
東方。さらにその向こうに広がる海は、舟どころか羽毛すら浮かばずに沈む魔法の水を湛
え、そこを渡ろうとする者を拒んでいる。その海の波濤に囲まれた小島に行く事ができる
のは、重力のくびきから自由になれる魔力の持ち主だけだ。

 その島を鬱蒼と包む森の奥深くに、「泉」はある。

 シーマがここに来たのは久しぶりだった。さすがの大魔導師も、天地の魔力で守護され
たここに一瞬で到達することはできず、魔法の森を自分の足で踏破しなくてはならず、な
かなか手間がかかる。しかしなお、それでもここに来なくてはならなかったのは、いにし
えの誓約のためだった。

 道無き森をゆっくりと進むシーマの前に、吸い込まれそうな群青色に染まった鏡のよう
な水面が見えてきた。一輪の波紋すらたたぬ、凍りついたような泉。だが、シーマの足元
で小さな枝がポキリと折れた音に、鏡の水面が突然、そよ風すらないのに細波を立てた。

 そして「泉」が目を覚ます。

 シーマに無限の命と、朽ちない肉体と、強大な魔力を付与したのが、この「泉」だった。
宇宙の根源に直結する未分化の「力」そのものが、ほんの小さな「滲み」となって、こ
の世界に顔を出しているのである。

 「泉」が、やがて妖精の姿を現した。泉の色と同じローブを身に纏い、同じく真っ青な
長髪をなびかせた美女。澄み切ったように青いハイエルフの女王は、しかしもちろん、
「泉」
の仮の姿なのである。
 その顔には奇妙なほどのアルカイック・スマイルが浮かんでいるが、これも、喜びの感
情の発露ではない。そも、宇宙の「力」に感情などあるはずはない。いや、むしろ意図せ
ざる悪意すらその笑顔の下に潜ませている事を、シーマは経験から熟知している。

『久しぶりですね、魔導師』

「うん」

 久闊を叙するにはあまりにそっけない挨拶を交わす。

「…かつてある賢人が、魂が満たされた瞬間に魂を売り渡す、という契約を悪魔と結んだ
そうだけど…」

『《とまれ、おまえはかくも美しい》』
 その賢人の最後の言葉を唱える妖精。

「どうやらあたしも、その時が来たみたい」
 シーマが無造作に言い放った。

『ずいぶんとあっさりしたこと。ここに初めて来た時の貴女は、世界の秘密を知りたいと
いう野望にギラギラと輝いていましたのに。その心がわずか数千年で朽ちたのですか?』
 泉の妖精が眉一つ動かさずに言う。

「アンタが与えてくれた力の代償。永遠を手にした者が、諸行無常の森羅万象に執着する
事は許されない。滅びる存在だからこそ、うたかたのものを愛さずにはいられない。それ
を捨てなければ、永遠はつかめない」

『その通り』

「だから、あたしが何かを愛したなら、全てをこの泉に捧げなくてはならない…」

『ずいぶんと、ここには多くのものが沈んでいます。貴女が愛したものが』

 泉のほとりに立って、シーマが水面を見つめる。深青の水底は何も見えるはずもないが、
シーマの目にははっきりと、今まで自分が振り捨ててきたものの堆積が見えていた。

「ほんとうに執着していたら、捨てたりはしない」

『そういう道を選んだのは、貴女』
 何の共感も感じられない、突き放した口調で泉の妖精は言った。

「でも、どうやらこれまでみたい」
 溜息をついたシーマ。

『あの姉妹のことですか?』
 はるかに隔たった距離も、この妖精女王は全て見通している。
『たかだか数年も経てば老いさらばえて、あっという間に土に還ってしまうヒトの娘たち
を?』

「…最初はただの気まぐれだった。でも…」
 何かを説明しようとしたシーマが、紅潮しながら頭を振った。
「…とにかく、あたしはあの娘たちを、この水底に沈める気はないの!」

「ならば、いにしえの掟は?」
 冷然と、妖精は詰め寄る。

「遂げられるしかない」
 間髪を入れず、シーマは決然と言い放った。
「あの娘たちを貴女に捧げないと決めた以上、飼い主のあたしが責を負うしかないでしょ
…。今までの万年に近い時間があたしを一瞬に押しつぶし、塵芥にしてしまうのかしらね。
でも、それが掟なら、好きにしていいわ」

 奇妙に、シーマの心は落ち着いていた。
 蓄えた知識も、磨き抜いた技も、そして自分自身の存在自体もが無に帰すことに、ため
らいがなかったわけではない。何よりも、シーマ自身はこの長き年月をもってしても未だ
に満たされていないのだ。
 だが、それもいいような気もしていた。自分が追い求めた宇宙の真理よりも、今のシー
マにとっては愛らしい二匹のペットの幸せの方が価値があるように思えた。

「…やれやれ、やっぱり手のかかるペットだったわね…」
 そうシーマが呟いた。

『…くくっ……』

 ハッとしてシーマが顔を上げた。信じられなかった。
 泉の妖精が、笑っている???

『…シーマ、私は貴女が思っているより、もっと意地悪で、もっと残酷ですよ』
 唇の端に苦笑を湛えている妖精の言葉に、シーマは面食らった。
『永遠の生命を得た人間が、愛に囚われてしまったら、永遠の執着に苦しめられる事にな
ります。いわば、劫罰。それを承知で?』

 沈黙をもって答えるシーマに、妖精は言った。
『貴女は、より深い呪いを受けることになる…』

「いや、感謝するわ。…これで少し、真理に近づく鍵を、手放さずにすんだから」
 いつものあっけらかんとした顔に戻って、しかし大まじめにシーマが言った。

『では、急いで戻ることです、古き友よ。貴女の愛するペットたちに、危機が迫っていま
す』

「!??」
 シーマの表情が、凍った。

『それと…、私への捧げもの、もう少し猶予してさしあげましょう。おそらく貴女は…』

 だが、その言葉をシーマは最後まで聞かなかった。大魔導師はとっとと森の中に駆けだ
していた。

 その後ろ姿を見つめながら、泉の妖精は姿を消した。泉は、再び眠った。

*

 アーヴェンデールの街中を包んでいた陽気な祭の喧噪も、晴れやかな婚礼のお祝い気分
も、全てが一瞬で吹き飛んでしまった。
 使者たちは周到に、誰も反論できないようにしむけつつ、狙い通りに王女姉妹を追い込
んでいた。なすすべを知らぬ姉妹や群臣、神官らを尻目に、息のかかった者たちが悉皆の
手はずを整えていた。

 騎士たちは主君の危機に色めき立ったが、騎士団長でもあるアンヌに制されては手の出
しようがなかった。重装歩兵の傭兵部隊がいかに強靱だろうと、精鋭の騎士たちがその気
になれば、使者ども全員を血祭りにあげることも可能だったろう。しかし、それをすれば、
周辺の国家全てが敵となり、孤立したアーヴェンデールが四方八方から侵略の馬蹄に踏
みにじられるのは目に見えている。
 誰もがその事を知っているが故に、王女姉妹が命じた以上、それを破ることはできなか
った。

 晴れ渡っていた空が、にわかにかき曇った。人々が不安におののく中、神殿の中から揚
々と姿を現した使者たちのうちの一人が、破嘴にも広場じゅうにふれ伝えた。

「善良なるアーヴェンデールの民たちに告ぐ!諸君らが敬愛の対象としていたクレア、ア
ンヌの両王女姉妹は、諸君らの善良につけ込み、自らのよこしまな意図を糊塗し、同性姉
妹による婚儀を行おうと企てた。だが、神の正義を奉じる我らは、他国民の分ながらもか
くのごとき神の摂理に反した行為を見逃す事はできぬ!」

 厚かましくも平然と王女姉妹を誹謗断罪する言葉に、人々からは不満のざわめきが低く
湧いた。

「…このままでは王女姉妹は、戒律に背く堕落した背徳者と目され、法王のご裁可が下れ
ば、魔女として処断されるやもしれぬ」

 そう言い放った瞬間、人々の口は閉じた。敬愛する王女姉妹の不利になる事を口走るわ
けにはいかない。

「ただし!」
 使者はそこで声を切り、邪悪な笑みを浮かべながら続けた。
「…神も、我らその威光を奉じる者も、不寛容は忌むべきところ。戒律において近親相姦
を禁じるは、人倫を守るため。されどかつての古王朝などにおいて、近親婚は王家の純血
を保つがために行われていたと聞く。また、戒律において同性愛を禁じるは、それが子孫
繁栄を害するがため。しかるに、もしも同性においても子をなす事ができるならば、この
戒律を改むるに神も躊躇はなさるまい」

 人々が、恐ろしい予感に震えた。

「…ならば、諸君らが敬愛する王女姉妹に、実際に見せて頂こうではないか!果たして女
同士でも夫婦の契りを結び、子を孕むための神聖な交わりを為せるのかどうかをっ!」

 その言葉が終わるやいなや、神殿の門からクレアとアンヌが婚礼姿のままで姿を見せた。
だが、先ほどの晴れがましさは一変し、王家の尊厳を保とうと強いて己れを励ましなが
ら広場に進む二人の姿に、群衆からはあちこちで悲鳴が上がった。
 王女姉妹には近衛兵も寄せ付けられず、代わりに、金のためなら何でもする貪狼な傭兵
たちが、まるで嬲るように周りを固めていた。無論、アンヌならばあの聖剣が無くとも、
徒手空拳でこんなならず者を叩きのめすのはたやすい事。しかし、今は愛する妹の肩を支
えるのが精一杯である。二人が晴れやかな結婚式の衣装そのままなのが、かえってその悲
哀を強調するかに見えた。

 そして、広場の中央には驚いた事に、いつの間にか使者たちのはしっこい手の者によっ
て、即席の寝台が用意されていた。といってもそれは、藁束の山をリネンのシーツで覆っ
ただけのものである。
 時に極悪人を処刑したりもする広場中央で、これから世にも甘美な、しかしこの上もな
く残酷な処刑が、この王女姉妹の身に執行されようとしていた。


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